Story2. 拡大した葡萄畑
明治期の峡東地域(甲府盆地東部)では、「甲州切妻型」と呼ばれる光を取り入れるために棟の中央を持ち上げた「突上げ屋根」を設けた家屋で、養蚕が盛んに行われていました。
しかし、昭和30年代中頃から化学繊維の普及などにより養蚕業が衰退し始めると、養蚕農家は収益性の高い葡萄などの果樹栽培へと転換し、限られた耕作地で収穫量を増やすために、家屋の軒先まで葡萄棚を張り巡らせました。
こうして葡萄畑は地域の隅々まで拡大していき、農家だけでなく、大善寺や清白寺などの寺社仏閣も葡萄畑の海に浮かぶような、他では観られない風景が形成されていきました。
また、勝沼地区には、収穫した葡萄を一時保存する半地下の貯蔵庫の遺構があります。これにより、出荷量の調整が可能となり、市場への安定供給と価格の安定が図られ、葡萄の生産拡大に繋がっていきました。この貯蔵庫は、電気冷蔵庫が普及する昭和30年代まで使われました。
昭和33年に国道20号新笹子トンネルが開通したことにより流通環境が飛躍的に改善し、京浜市場と直結されたことから、葡萄栽培は一層盛んになりました。またモータリゼーションの進展とともに、首都圏からの観光客が急増したため、主要な道路沿いには観光ぶどう園が増加し、今でも収穫の時期には、葡萄狩りを楽しむ観光客で大いに賑わいます。